川尻の歴史(くまもと工芸会館の案内より)


 
川尻(古くは河尻)は、緑川の河口に位置し、鎌倉初期の建久初年、河尻荘の地頭に任命された河尻実明が河尻城を築き、また河尻の津を天然の良港として整備して発展させたのが始まりといわれています。

 安貞元年(1227)曹洞宗の開祖道元が、宋からの帰途暴風に遭い河尻に漂着しております。また、中国の明時代の地理書「図書編」に「開懐世利」と記されているように、中世から海外貿易が盛んに行われていたといわれています。

 近世になると、加藤清正が天正16年(1588)肥後半国24万石の大名として入国し、川尻を藩の軍港および年貢米の集荷基地としての商港として発展させました。軍港としては、御船手(海軍)を置き、天草五人衆の一揆による派兵、朝鮮侵攻での兵糧米積出しなどの軍事物資輪送の基地、商港としては、海外貿易を積極的に行いフィリピンのルソンなどと交易の基地としての役割を果たしていました。

 加藤氏改易のあと、肥後54万石の領主として入国した細川氏は、川尻を肥後五ケ町の一つに指定し、町奉行所、津方会所(税関)、御作事所(造船や建築の役所)、御船手(海軍)などの主要な公的施設を置きました。御船手には、大小150艘の軍船が停泊していたといわれています。

 この頃川尻は、薩摩街道の宿場町でもあり、本陣があり公用者や島津家が参勤交代のおりの宿泊所でもありました。また、町奉行所内には、藩主の休息または宿泊のためのお茶屋が置かれていました。

 また、緑川水系の年貢米の集結地で、収容能カ20万俵といわれた9棟の米蔵があり、大坂や長崎に積出す御米船(最高1200石=180トン積)11艘など多くの商船があったといわれ、宝暦から天明年間には川尻津方の運上金(輸出入税)が年平均100貫目=今日の消費者米価に換算して1億円の税収入があったといわれています。

 このように、川尻は緑川水系の行政、商工業の町として栄え、刃物や農機具鍛冶、緑川上流から筏で送られてきた木材の製材、木工、造船などの産業、船舶輪送、消費物資の供給などの商業が発展し、熊本の町に次ぐ賑わいがありました。


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